駅ピアノならぬ

150 150 山下とうふ店

「街角ピアノ」という番組でシンガポールの町の一角におかれたピアノで高校生くらいの女の子が放った一言がすごかった。「ピアノをながく弾いているといろんなことが感じ取れるいろんなことを表現できるようになる、ピアノって自分にとって新しい言語みたいなの」・・・高校生くらいの子がこんなこというとだれかに吹き込まれた言葉のようでもあるけれども、そんな感じではなくこころよりそう感じている言い方でした。それにしてもどこへ行ってもピアノとそれを使いこなす人はいるもんですね。和声がからんでくるので笛とかと違ってとても頭の中そしてそれに指令される指は大変そう、なにも楽器のできない自分にはそう見えます。・・・次から次へとやってくるひとひとひと、シンガポールは人種の坩堝(るつぼ)でした。

大雨がふるとの予報でしたが午後断続的にパラパラという程度でした。あしたへ持ち越しかな。

麦の刈り取り機の一部品破損で修理に出していましたが治ったようです。より重要な部分を守るため下位にある部品を破損させて本体を守る、という理屈で「あるピン」が折れたそうです。機械工業の哲学みたいなものをまた教わりました。いろんな工業製品はこの思想に貫かれているようです。メカニカル時代のライカとツァイスの対比でよく出てくる話ですが、ライカがなぜあれだけ王者の地位をゆずらなかったのもこの思想ゆえだと思います。ある小さい部分の犠牲の上に全体を守る、に対してそもそも完璧な構造にして部品まで含めて壊れないように作る、との差ですがそもそも「動くもの、回転するもの、力の加わるもの」というのはいつかは摩耗・破損するもので、初めからずれたり破損する部分を想定した対策をたてている「製作姿勢」のほうが勝っているのはいろんな機械の製造の歴史が物語っていることでしょう。ものを大切に永く使う、という前提にたっています。使い捨て主流の現在では少数派の見解でしょうか。