新しいSurface

150 150 山下とうふ店

が治ってからというもの使うのはそれではなくてSurface出たての頃のi-PadのでかくなったタイプのものにHPのミニ・キーボードを付けてパソコン作業をするのが日々の常となってしまいました。いまだに使いやすいです。

 大豆のめずらしさでアピールするとうふももうそろそろ限界かなと考えています。結局は豆の違いというのは”優劣”の問題というよりは、”楽しみの多様性”であって、使ってる本人の思い入れほどには食べる人には訴えるものではないと思います・・・”豆”の関係者は別として。豆腐の”高み”を目指せば目指すほど重要な意味をもってくるのは”にがり”の解釈だと思います。きれいに寄せる、などは初歩の初歩で「きれいに寄せるために」きちんと煮る、では物足りないと考えます。寄せる技術は、煮すぎは別として、未熟煮であってもきちんと対応できなければならないと考えます。これができなければ”消泡剤無使用”には対応できません・・・といってもこれは手寄せのときのことを言ってますが。ホモゲナイザーや充填寄せ・湯せん寄せは除外します。充填寄せは物理的・化学的には結合の最も美しい配列で豆腐は固まっていますがここからは温めた時のふわっと感や口に入れた時のほろほろくずれは成しえません。凝固に”一瞬均等性”をもたらすことのできない”手寄せ”には避けることのできない宿命です。逆にこのミクロの世界の均質の不均質という固まり方こそ手寄せの利点(欠点という見方もあります・・・つまり充填法や湯せん法から見たら)であり、手作り豆腐の生き延びる道かもしれません。AIに勝てる道はどこにあるのか、残された時間はこのことをいろいろと考えてみたいと思います。さまざまな分野で、AIにできない領域は?ということがとりあげられることになってくるでしょう。人間の「考え方」まで学習してしまったAIは特定のひとの”考え方”をその人が死んでしまっても、いろんな見解を発するかもしれません。論理の外し方のくせ、まで学習すれば人間の頭は永遠に残っていくことになるのでしょうか。

 大豆をたんぱく質の含有量から分類する業界特有の大豆の二大選別に低たんぱく大豆と高たんぱく大豆という二大選別がありますが、低たんぱくは数はきわめて少ないです。低たんぱくからみたら他は大方”普通”というよりは”高い”と見たほうがとうふ制作時はあたっています。低い・高いそれぞれに利点・欠点はありますが、制作にかかわる”遊び”の込め方は高たんぱくのほうに軍配があがる、というのが今現在自分の考えです。煮た時に発生する”粘性”の現われ方・対処の仕方はこの半年”第三”の寄せ、を考えだすに至りました。こんなのがあるのかねー、という大豆です。

 ウェラを最初から見直しています。風景と人物劇との合作なのかな? これがロンドンだったら変だなあ。