なのかわかりませんがタイミングがいいといつも観ています。
こういう授業が学校で行われているとおもしろかったのですがね。まあこれは”詩”の、言葉を削りに削った世界の話ですが。
国語は大嫌いでした。テストが良くなかったのだと思います。
書くことの訓練など全くなかったです。小論文、て何なんでしょうか。若くして長文を書きこなせる作家の卵みたいなひとは別として、ませたところも、背伸びしようにも何を・どう気取るのかもわからない未成熟の青年が文章書けと言われてもしょせん無理な話で、あの時代の自分たちの”文章作成”環境ってなんなんだったのでしょうね。自己の形成と背伸び・気取りは仲のよい夫婦みいに寄り添いながら先へ先へと急ぎ歩んでいくものですが、それでも各自それなりに”自分流”を少しずつ積み上げていくことの基礎を作り上げてったのでしょう。読むこと、実体験それぞれが相互作用で思索を深めていくのだと思いますが、実はこれに書くことが加わって思索の整理・考えの定着が行われるものと考えます。読むこと・しゃべるだけでは思考が”ぶらんぶらん”した感じで自分オリジナルのきちんとした考えは定着しないと思います。
Twitterはしょせんささやいたりわめていているだけできちんとした考えを相手に示せるものだとは思えません。なんでこんなものが流行るのかわかりませんが、世の中がものごとをゆっくりと考えきちんと自分流の考えを形成していく努力をしない時代とあっては「本が読まれない」時代の到来は不可避なのかもしれません。本はモノを考える道具だと思いますが、きょうある方と話していて次に何を書くかの企画で迷っていると聞き「本が読まれなくなった」時代に何を語ったらいいのか苦しんでいるようでした。読んでくれないのでは書きがいがない。これはものつくりも同じか?
考えることを誘わない風潮。これからどうなっていくのでしょうか。